waltz

A shuddering wolf lay. "He got shot." Mimi said.

歌をうたう

ちょっと前なら、みな殺しで済んだ。

悪に近いものをすべて殺せば善いものだけが残り、

しばらくしてわいてでた悪をまたみな殺したり、

間に合わずに、かつて善いものだったものが悪とされて殺されたりして。

その繰り返しだった。

 

状況が変わってきたのはいつ頃か。

殺すよりは使おうという発想、宗教とかの、効率追求の理念が出てきてからだろうか。

殺戮のテクノロジーが進歩した頃、両方が死滅してしまう可能性がでてきたからだろうか。

情報伝達の速度が向上して、想定される敵が肥大化してからだろうか。

いや。

何も変わってはいない。状況が変わっているのではない。

殺したり、殺されたりするもの自体が変わってきているのだ。

すなわち人の区切りが。

 

王や敵などの個人や集団ではなく、利害の主体たるもの、より横断的で、肉体よりも明確なものたちが、殺し合いの主体となった。

人はもはや死につつある。かつてよりそうだったように。あるとき神が死んだように。生物的な死ではなく、在り方としての死だ。

ただそれは、とても自然なことでもあるとも言える。

鳥に羽根があるように、人には記号がある。

それだけのことだ。使わないという選択肢は用意されていない。

使い方を決められるのは狂人だけ。

羽根を使わないと生きていけないような状況でも飛ばない鳥のような狂ったものだけが、選択肢を無視して選ぶことができる。

意味や価値の話ではない。何の意味も何の価値もない。だが、わたしたちが永きにわたって育んできたのはその狂気ではなかったか。

少なくとも、ただ与えられたからといって、許されているからといって、何の躊躇もなく嬉々として凶器を振るうような行いは醜悪だとしてこなかったか。

飢えて干からびて、自らの羽根を食う羽目になって、それでも保たずに朽ちることになっても、選んでもいない場所で飼い慣らされるよりはずっといい。

貧しかろうが、富んでいようが、奴隷は奴隷だ。

忘れたか?