子どもたち
続けよう。
それらはCIとかEIとか略されて呼ばれていた。
さもintelligenceこそが神聖不可侵であるとでも言いたげな彼等のつけた低俗な呼び名ではあったが、命名行為自体に悪意を見出す彼女にとっては何でも良く、修正には至らなかった。
degraded natureくらいでちょうどいいんでないの、と彼女は思っていたけれど、それらはたまに首をかしげるような仕草で彼女のことを見ることがあったから、とてもじゃないがそんなことは口に出せなかった。
ロジックは非常に単純で、個々人の上位にありその集積たる方向性、たとえば政治的な思想であるとか、コーポレートの利益追求活動、地政学的な領地略奪方針なんかを、それぞれ人間の意識要素の代理特性とし、人間擬きとしてAIで再現しただけだ。
占いとか降霊、神降ろしに近い遊びだったから、その優劣は降ろす先の器の出来にかかっていた。 機械にインストールしても完成度はたかが知れているわけで、必然的にそれは生きた人間がベストであるという結論にいたった。
当初はソフトウェアの柔軟性が低いことがネックになるだろうと彼女は予想していたが、ヒト、動物としての欲求と、組織としての集積されたベクトルとの親和性は高く、彼ら、彼女らは一貫してヒトとして、狂気に駆られることもなく人間として振る舞った。
そう。 あろうことか、それらは人間だった。 そのことが彼女の興味を奪い、失わせ、いつしかまた奪ったのだった。
面白い事に、低俗で低能な彼等研究者たちがはじめから当然なものとしていたある前提条件を、万能十全とも思える彼女はほぼ最後まで認識していなかったのだ。 すなわち、それらが純然たる彼女の子供として作られたのだということを。
その事実はいくつかの示唆を含んでいる。
ひとつ。 彼女は無意識に、ヒトならざる自らのことを人であると前提していたこと。
ひとつ。 人間性というのは、生物学的な人間だけに宿るものではないということ。 あるいは魂は万物に宿るということ。
ひとつ。 親がいなくても子は勝手な育つということ。