waltz

A shuddering wolf lay. "He got shot." Mimi said.

もどき

人権、ただ人であることだけで生ずる権利というのは一般的にそれぞれの国家がそれぞれの国民に対して保証するものだけど、その性質上、つまりただ人であることだけが要件であるために、国家は他の国家とその国民に対してもその理念を適用させようとする。

国民にとっては他国民であれ人間であることはほぼ自明だから、彼らに対しても人権の保証を求める姿勢を見せないと、当の国家の基礎も揺らいでしまう。

たとえば戦争なんかで他国民の人権を侵害しようってときに国がまず手をつけるイメージ戦略が、敵国民、特に敵兵を非人間化することだったり、敵国自体を敵国民の人権を侵害するキャラクターへと擬人化することだったりするのは、要するに自国の人権保証概念を守るためのものだ。今や戦略ってほどではない、作法のようなもの。

だから、そもそも国によって異なる人権の中身がどのようなものなのかを理解するというのは、言うまでもなく大事なことだ。
人種や宗教や性別や思想諸々の人間の基本的な性質によって人権の保証範囲が異なる国家があれば、それらは必ず対立しあう。
国の基礎的な概念だからどちらもなかなか変えるわけにはいかない。あちらさんのご要望で性別によって選挙権の有無を変えることにしました、とはなかなかならない。
虐殺、戦争、革命。人々が国家という枠組みでくくられ、暴力の主体者が個人でないものに委ねられる以上、パラダイムシフトには流血が伴う。何故なら国家の権威の背景は暴力だからだ。

さて、そうは言ってもそこかしこで戦火が上がったりしないのは、そもそも国の基盤となっているのはパラダイムなんてご立派なものではないからだ。人権なんてのは実はプロパガンダでしかない。
哲学や宗教、倫理の怠慢と腐敗。その隙に、人々は貨幣という道具を記号化し、浸透させ、汎用化することによって、針の穴にラクダも通す万能の道具へと変えてきた。
いや、実際のところ哲学や宗教が社会の指針やタガになることなんて、もともとほとんどなかったのだ。それらは本来的には記号化できないベクトルであって、記号にして固定されると途端に陳腐化する。はじめから死者のものである貨幣とは正反対だ。どちらも死の克服を起源のひとつにもっているが、アプローチの仕方が全く違う。

話が逸れた。

争いは貧富の差が大きくなることによって発生するが、富の記号化の加速とそれによる市場の急速な拡大より偏りはより大きく、局所的になっていく。
つまり、経済に関わる人の数、市場の増加、増大に反比例するように富める人の比率はより少なくなり、だがその富の占有率は増える。

中枢にある人々にはどんどん富が集中するが、記号化された富は保持の制限がなく無限に増大する。国は構造を維持するために格差を是正しようとするが、中枢が富めるものである以上限界がある。人権やら平等やら自由やらの概念は、それらを持たない貧者のためのだ。もとの理念の残滓でしかない。格差是正が頭打ちになったらやはりまず手軽な情報操作を始める。それでも足りなくなったら次は侵略というのがセオリーだ。

すこし面白いのは、中枢とはいってもなにか重要な機能がそこにあるわけではないということだ。中枢にある人間も末端にある人間も機能としては単純な歯車でありほぼ変わりはない。特にこの国によくあるタイプの組織は中枢にいればいるほど愚鈍であることを求められたりする。愚鈍であることも性能ではあるのだけれど、つまり中枢か末端かの区別は人間の、細胞の、歯車の性能で決まるものではないのだ。
木でいうところの実か花か根か幹かではなくて、物理的な高さで富の集中度合いは決まる。
根と枝葉を逆にさせたような構図、というのは笑い話にはなるか。

本題はまた。